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月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。
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2013-07-22 |
2013年 8月号 3週次 |
365qt |
1930 |
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8月 18日
1. イエス様が会堂に入られたとき、そこには片手のなえた人がいました。イエス様と人々は、それぞれ、その人に注目した理由が異なりました。それぞれが注目した理由は何ですか(1~2節)。 -> イエス様は、その人の障害をいやす目的でその人をご覧になった(1節)。一方、人々はイエス様が律法に反して安息日に人を直すかどうかをじっと見守り、イエス様を訴えようとする目的を持っていた。
2. 人々の主な関心は何で、それに対するイエス様の反応と行動は何でしたか。それがもたらした結果は何ですか(2、5節)。 -> イエス様は、人々の主な関心が片手のなえた人のいやしや回復ではなく、はたしてイエス様がその障害を持つ人をいやすことによって、安息日の律法を破るのかにあるということをご存知だった。だから、彼らの心が「かたくなな」ことを嘆き、怒られた。そして、障害を持つその人をいやされた。そのいやしの結果は、イエス様を葬り去ろうとのパリサイ人たちの動機をより強くすることになった。
3. 障害を持つ人をいやしてくださるイエス様を見て、パリサイ人たちはなぜ反対したのでしょうか。(参照/マタ12:11)。なぜ彼らは、イエス様の問いかけを聞いても心が変えられなかったのでしょうか。 -> 彼らは、イエス様が安息日に障害のある人をいやされる行為を、安息日を守らないことだと考えた。パリサイ人は、律法を守ることに熱心だった人々である。彼らは律法の細かい項目を守ることを、いのちを守り、救うことより重要だと考えた。それだけでなく、イエス様は「いのちを救うことと殺すこと」にたとえ、パリサイ人たちは手がなえた人をいやすことに無関心で、イエス様を陥れて殺そうとすることに熱心であることを批判された。それにもかかわらず、パリサイ人たちはイエス様のみことばに耳を傾けなかった。悔い改めの機会が与えられたのに、彼らはそれを受け入れることができなかった。
4. イエス様を陥れることばかり考えていたパリサイ人に向かって、イエス様はどのような思いを抱かれましたか(5節)。そんなイエス様の態度から、何を感じますか。 -> イエス様は怒られたが、同時に彼らのかたくなな心を嘆かれた。これは、心の底から悲しまれたという意味である。イエス様は、パリサイ人たちの思惑を見破られたので、当然、怒りを感じられたはずである。しかし、主は彼らのかたくなな心を残念にも思われた。イエス様は、自分に敵対する人々さえも愛され、彼らのかたくなな心に対して、自らさばきの道を歩んでいる人々を嘆かれるお方である。
5. 私たちにはパリサイ人のように凝り固まってしまった、長年の宗教的な慣習はないでしょうか。その慣習が、主の愛の心を現すことに肯定的に作用しているでしょうか。それとも否定的に作用していますか。 -> 長年の宗教的な慣習から、「心は燃えていても肉体は弱い」という常套句を何度も口にしたり、耳にしたことは多くても献身しなかったり、奉仕をせず礼拝の時間に遅れる人々をさばいたり、早天祈祷会に参加しない人々を信仰がないと判断することなど、様々な例を挙げることができる。
6. 私たちが、時にパリサイ人のように失敗したとしても、罪に定め、さばかれずに、愛の心で諭される主の心を感じてみましょう。そして、家族と教会の兄弟、姉妹の中で、あわれみの心を持って接すべき人々にはだ
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目録
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