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小グループのガイド

月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。


日付 題目 お名前 投稿数
2022-09-02 2022年 10月 5週次 365qt 121
2022년 10월 GBS 5과 삿 13:15-20
理解できないことに直面しても主を礼拝する

마음의 문을 열며
人はその人生の中で理性と限界を超える理解できないことに出会うことがあります。そんなとき人々は深い絶望と戦いに陥り、当惑します。さらには怒り、いらいらし、不満を表現することもあります。しかし神の民は理解できないことに遭遇しても、世の人とは違う態度や反応を見せるべきです。神の民は神様の考えと道が自分の考えと違っているという事実を認めなければなりません。そして神様は人の理性を超越して働かれる「不思議」な方であることを告白し、信仰をもって反応しなければならないのです。神様の民は理解できないことに遭遇するとき、不思議な方である神様の前でどのような態度を取るべきでしょう。今日の本文を通して、マノアとその妻の態度と反応を見てその答えを探してみましょう。

말씀의 씨를 뿌리며
1.マノアが主の使いに求めたことは何ですか(15節)。マノアがこのように頼んだ理由は何でしょう。
―マノアは主の使いに子やぎをほふって調理してもてなすので少し待っていて欲しいと言った。/
マノアがこのように頼んだ理由は、当時客を接待する習慣があったからである。当時は自分が住む所で、土地の者でない旅人が来た場合には、その人がどんな人であっても、休息をや食事をとらせ、その人を元気付け、もてなさなければならなかった。

2. マノアの願いに主の使いはどう答えていますか(16節)。主の使いがこのように答えた理由は何でしょう(参考/ヘブ13:2、士13:23)。

―マノアの願いに主の使いは、自分を引きとめることはできるが、自分はあなたの準備した食物は食べない、と答えている。そして全焼のいけにえを主にささげることを勧めた。/
主の使いがこのように言った理由は、マノアが、対話している相手が神様の使いであることを知らず、単純に「神の人」程度に考えていたからだ(参考 ヘブ 13:2)。主の使いは、神様に動物を全焼のいけにえとしてささげるささげものについてあえて言及し、マノアに、自分が「神の人」ではなく神の使いであるということを知らせようとしているのである。それだけでなく、全焼のいけにえを通して奇跡を行い、自分がつまり、全焼のいけにえを受け取る神であるということを見せた (参考 13:23)。

3. マノアが主の使いにした質問は何ですか(17節)。マノアの言葉に主の使いはどのように答えていますか。このように答えたのはなぜでしょう(18節)。

―マノアは主の使いに名を尋ねた。名を知らせてくれるなら、みことば(マノアの妻に息子が産まれること)が成就するとき、その人をほめたたえたい、というのがその理由である。/
マノアの言葉に主の使いは名をどうして尋ねるのかと問い、名が「不思議」であると答えている。「不思議」という言葉は「理解できない。理解を超えている」という意味であり、神様がいかに優れているかを表している。人の名はその存在と本質に密接に関係している。主の使いは自分が「不思議」であると語ることによって、自分は人の理解を超えた者であること、その方が行うことをマノアが聞いて理解するには、非常な驚きを伴うということを表している。言い換えればこのことを通し、不妊であったマノアの妻の妊娠や神様の奇跡のわざは理解されることはないが、必ず成就することであると知らせている。

4. マノアが子やぎと穀物のささげ物を取り、神様にささげると何が起こりましたか(19~20a節)。このことを見たマノアとその妻はどのように行動しましたか。なぜでしょうか(参照/13:18、 21)。

―マノアが神様に子やぎと穀物のささげ物を、岩の上で主にささげた。すると奇跡が起こった。炎が祭壇から天に向かって上ったとき、主の使いがその炎の中を上って行ったのである。/
これを見たマノアとその妻は自分の顔を地につけてひれ伏した。子やぎと穀物のささげ物が火で焼かれて炎になって天に上って行ったことは、神の使い (神様)がそのささげ物を受け取られたという証拠であるが、 マノアはこの場面を見たあと、ようやく自分が話していた方が「神の人(預言者)」ではなく、「神の使い」であることを知った。「不思議」であるその方の前でひれ伏して顔を地につけてひれ伏して礼拝したのであった(参考 13:18、 21)。

5. 神の民は理解できないことにも「不思議」なお方である神様の前にひれ伏して礼拝しなければならない。あなたは理解できないことに遭遇するときも神様の前にひれ伏して礼拝して生きているでしょうか。

6.神様は神様の民が理解できないことに遭遇しても、神様の前にひれ伏して礼拝することを願っておられます。理解できないことにも神様の御前にひれ伏して礼拝するために何を決断するべきでしょうか。

삶의 열매를 거두며
ドイツの神学者オットー(R. Otto)が作った表現の中に「ヌミノーゼ?」 (Numinose)という言葉がある。これは人が超越的で聖なる神様の前に立つ時、大きな衝撃を受けて自分が被造物であることを存在論的に痛感し、神様の輝かしい栄光の前でひれ伏す姿を言います。神様の民は神様が人の理解を超えて働かれる「不思議」な方であることを告白し、理解できないことにも神様の前にひれ伏して礼拝しなければなりません。言い換えれば神様が人の理性を超えて働かれる方であると言うことを告白し、神様を礼拝しなければなりません。理解できることにのみ主に感謝し礼拝するのではなく、理解できないことにも神様にひれ伏して礼拝する本当の神様の民になりましょう。

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