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小グループのガイド

月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。


日付 題目 お名前 投稿数
2021-10-28 2021年 12月 2週次 365qt 301
コロサイ人への手紙 3:1~10
聖徒にとって意味あること
古代の中国において起こった三国の戦いを題材にした小説『三国志』には有名な将軍、関羽の逸話が登場する。関羽は、敵陣を単独で突破し、敵軍の将軍をやぶったあと、自分の勇敢さに驚く人々に対し、自分の弟分である張飛は自分よりもっと強いことを語り、まるで「ふところからものを取り出すように」敵陣を突破し、敵の将軍を退けたことを誇りました。この後「ふところからものを取り出すように」という表現は「囊中取物」という故事成語となり、自分の望みのことを簡単に成し遂げる姿を描写するときに用いられています。今日の本文は聖徒に「すでにあるもの」が何かを教えてくれます。パウロが語る、聖徒が「ふところから取り出すことのできるもの」とは何か、ともに考えてみましょう。


1.パウロはコロサイ教会の聖徒たちに何を求めるように語りましたか。これを求めることの意味は何でしょう(1節、 参照/Ⅰコリ14:12)。
-パウロはコロサイ教会の聖徒たちに、「上にあるものを求めなさい」と言った。「求めよ」という単語は原語ではzeteo、英語では seekである(NASB)。原語ではこの単語は現在命令形で書かれているが、これは一度だけ求めてみよという意味ではなく、求めると言う行為を持続的にせよと言う意味に近い。NIV聖書ではこれを念頭に置き set your hearts onと表現している。パウロは同じ単語をコリント人への手紙14:12でも使ったが、この時には霊的なものを慕い求め、もっと豊かになることを「求めよ」という表現になっている。つまり聖徒たちに新しいいのちを与えたキリストがおられる神の右側を思い続け、黙想せよという意味として受け取れる。

2.パウロは聖徒たちに上にあるものを求めるだけでなく、どのようにせよと言いましたか。聖徒が上にあるものを思うとき、やめることは何ですか(2節、参照/ピリ2:5)。
-2節では上にあるものを「思いなさい」と表現されていますが、原語ではこの単語もまた、現在命令形で表現されている。NIVと NASB二つの英語の聖書両方で同じようにこの単語はset(your) minds onと表現されている。パウロはピリピ人への手紙でこの単語をキリスト・イエスの思いを抱きなさいという意味で用いている。つまりパウロが聖徒たちに願うことは心と思いをイエス・キリストがおられるところに固定すること、またキリストの考えと思いを聖徒が抱くことであると理解できる。パウロは上にあるものを考え、地にあるものを思ってはならないと言っているが、上にあるものを考えるとき、地のものに思いを置かないという意味として解釈できる。


3.パウロは聖徒が上にあるものを求め考えるとき、地にあるものを考えない、放棄できる理由として何と説明していますか(3~4節)。
-パウロは聖徒に上にあるものを求め、地にあるものを思うなと言いながら、そのようにできる理由として聖徒のかつての自我が「すでに」キリストとともに死んだからだと言っている。パウロは聖徒が「死んだ」という表現を用いるところで「不定時制」を用いているが、ギリシャ語でこれは「過去にすでに完了した状態」または「確定した状態」を意味している。つまり聖徒は肉に属するこの地のものを考えず、求めない様にとの勧めを受けたが、聖徒のかつての自我が死んだことがすでに確実になっているなら、すでに死んだ肉に関することを考えず求めない、肉に従って生きないということは、非常に易しいことであるはずだ。

4.パウロが、聖徒がすでにキリストと一緒に死んだのなら「新しい人を着た」と確定的に表現したのはどうしてでしょう(10節)。
-パウロは(聖徒が)新しい人を着ると言う表現もまた不定時制を用いて書かれている。聖徒が新しい人を着ることが「すでに」確定的に起こったことだと表現されているのである。パウロは聖徒の昔の自我が死んだことはすでに確定的なことであるので、新しい人はすでにその身に着られていることも確定的なことである。従ってこれらのことは聖徒にとって罪と戦うことは簡単なことで、必ず勝利に至る確信と勇気が与えられる理由となる。聖徒にとって淫らなこと、けがれたこと、情欲、貪欲、怒り、偽りなどを殺し、取り除くようにとの命令は、対等に戦う構図から与えられたものではなく、すでに勝敗が決定された戦いの場で敗残兵を取り除くような易しい事のような表現で語られたものである。

5.聖徒はすでに勝敗が決定している戦いで戦う将軍のようなものです。あなたはすでに罪と死の力に打ち勝たれたキリストが新しい力を与えるという事実を信じ、罪との戦いで必ず勝利するということを確信していますか。
6.キリストによる勝利はすでに聖徒に与えられたものである。肉の情欲を捨てよみがえられたキリストを黙想しながら生きるために、あなたが決断しなければならないことは何か
ともに考えてみましょう。

私たちはこの地で生きるとき、多くの誘惑や試みに遭います。このような試みと誘惑を、罪の本能のゆえのことでどうしようもないことだと考えて克服できないと考える聖徒たちも多くいると思います。イエス様が、すでに私たちの罪についてはすべてきよめてくださったにもかかわらず、自分の人生が罪にまみれていることに絶望し、これからも打ち勝てない戦いが続くのだろうと敗北感に飲み込まれてしまうこともあるでしょう。しかしパウロは私たちの戦いはすでに終わっていると宣言しています。なぜなら神様の右で私たちのためにとりなしをされるイエス様が今この瞬間にも私たちと一緒におられ私たちの勝利を保障してくださるからです。今日もキリストを黙想し、罪に対する勝利を「ふところからものを取り出すように」味わえる聖徒になれますように。

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