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小グループのガイド

月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。


日付 題目 お名前 投稿数
2021-08-04 2021年 9月 1週次 365qt 280
ローマ人への手紙 9:14~18
憐みを与えられる神様

宗教改革者たちが良く用いたラテン語「エクストラ・ノス」 (Extra Nos)は、「われわれの外に」(outside us)という意味を持っています。これは救いが苦行や献身のような人間の行為によるのではなく、ただ神様の恵みによってのみなされるという意味です。救いは人間の外に織られる神様によって成し遂げられます。しかし世の宗教は救いが人間の努力にかかっていると言い、間違った道へと導きます。本文でパウロはローマ教会の聖徒たちが神様について正確に悟り、神様の恵みを完全に味わって、正しい信仰の道へと進むようにと言っています。神様が与えられる偉大で驚くべき恵みは何か詳しく調べてみましょう。

1. ユダヤ人たちが神様の選びについて疑問を持ったとき、パウロはどのように反応しますか。ユダヤ人たちが、神様のことを不正であると考えた理由は何でしょう(14節、ロマ 9:11~13)。
-パウロは、ユダヤ人たちにむかって、神様には不正がないと言った。
-ユダヤ人たちが神様の選びについて公正がなく、不正だと疑問を提示した理由は、
神様がまだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、その人を愛したことも、憎んだこともあったという点による。神様は、その愛する者には救いを賜物としてくださり、憎む者は救いを得られないように捨てられる。神はただ、ご自分の良きみこころに従って誰かを救い、誰かを捨てるということを決定される (参照 ロマ 9:11~13)。

2.パウロは神をどんな方として紹介しています。人間が憐みを受けることが神様によっている理由は何でしょう(15~16節)。
-パウロは神様がモーセに言われたみ言葉を引用し、神様は不正な方ではなく、自分のあわれれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ方として紹介している。
-パウロは人間の救いが努力にかかっているのではなく、ただ「あわれんでくださる神」として神様の恵みを経験することは人間の善行や善行を行おうとする意志を持つことにかかっているのではなく、ただあわれんでくださる神様のみこころにかかっている(参照 出 33:19).


3.神様がパロをたてられた目的と、パロを頑なにされている理由は何ですか(17~18節、 参照/出9:15~16)。
- 神様がパロを立てられた目的は、彼を通して神様の能力を見せ、神様の名が全地に伝えられるようにするためだった。
-神様がパロの心をかたくなにされたのは、神様が、パロが良き心を持っているのにわざわざかたくなにしたと言う意味ではなく、パロのかたくなな心を放っておかれたと言う意味である(参照 出 9:15)。神様が人間に恵みと憐れみを注がれないなら、その悪とかたくなさからは脱することができない。

4.神様がモーセをあわれみ、パロを頑なにされても、不正でないという理由はどこにあるのでしょうか(18節、参照/創 6:5)。

- 聖書はすべての人間の心はもともと悪であると言っている(参照 創 6:5)。だれも救われる資格のある人間はいない。神様はある人々の心は悪で頑なであると言われるが、神様が不義であるということではない。神様がある人々をかわいそうに思われたと言っても、神様は溥儀であるということではない。神様が憐みを持って彼らを取り扱ってくださるからだ。神様の目に、私たちは裁きを受けるしかない存在である。神様はすべての部分を治めてくださる主として、憐れむ者とさばかれる者をご自分のみこころの通りに定めておられる。だから人間は神様に対し不義だと言うことはできない。

5.神様が憐みを注がれなかったなら、あなたは罪から脱することができなかった存在です。あなたは恵みによって救われた事実を、感激をもって受け止め、生きていますか。
6.神様が永遠に死ぬしかなかった罪人であるあなたを選択してくださり、憐れみを注ぎ、救ってくださった恵みを人生でどのように表現することができるか分かち合ってみましょう。


パウロは神様が罪びとを救われる根拠について、正しいか正しくないかではなく、これは憐みであると宣言しています。救いは全的にあわれみを注がれる神によっているので、私たちの行いや功労によるものではありません。しかし私たちの周囲には救いが自分の行為や努力によると信じ、あわれみを注がれる神を不義であると思う人がいます。私たちはみことばを基礎にし、信仰の骨組みを頑丈にして、救いが人間の努力ではなくただあわれんでくださる神によるのだという心理を胸に刻まなければなりません。さばきの他には何も受け取る資格がない私をかわいそうに思い、選んでくださった神様の驚くべき恵みを賛美し、感謝しましょう。

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