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小グループのガイド

月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。


日付 題目 お名前 投稿数
2020-07-14 2020年 8月 3週次 365qt 434
コリント人への手紙第一 4:1~16
福音を委ねられた者の姿勢

プロ・スポーツで最も重要に思われる部分は、競技の勝敗です。競技の結果によって、ゲームに参加する選手と応援したファンたちは勝利の喜びを満喫し、敗北の悲しみを経験することにもなります。しかし競技に敗北したとしても選手とチームが最善を尽くしたなら、ファンたちはその姿に感動し、惜しみない拍手を起こることになるでしょう。この地を生きる私たちもまた、福音を聞いて競争する選手のようなものです。私たちが最善を尽くし、委ねられた使命を果たしているなら、主は私たちに惜しみない歓呼と拍手を送ってくださることでしょう。今日の本文を共に読みながら、私が福音を委ねられた者として最善を尽くして生きているかともに考えてみましょう。


1.パウロが語る「キリストのしもべ」、「神の奥義の管理者」である「私たち」とは誰のことでしょう。パウロは「私たち」がコリント教会の聖徒たちの手本になった目的について何と言っていますか(1、6節)。
-パウロが「キリストのしもべ」、「神の奥義の管理者」と称している「私たち」は、自分とアポロのことである。パウロは自分たちがコリント教会の聖徒たちの手本となって聖徒たちを記録されたみことばを超えないようにすること、特別にほかの兄弟より自分が優れていると思わないようにすることが目的だと言っている。

2.パウロはコリント教会の聖徒たちに主が来られる前まで、何をしてはならないと言いましたか。パウロがこのような要請をした理由は何でしょう(5節、参照/Ⅰコリ3:3~4、 21)。

-パウロはコリント教会の聖徒たちに主が来られるまで先走ったさばきをしてはならないと言った。
‐パウロがこのような願いをした理由は、コリント教会の聖徒たちが、パウロから学んだ人たちとアポロから学んだ人たちで派が分かれ、互いに争うようになっていたからだった。彼らは自分が過去にだれから学んだかについて互いに誇り、相手を批判した。

3. パウロはコリント教会の聖徒たちを誰と区分していますか。パウロがこのように区分した目的は何ですか。二つの集団の差は何でしょう( 8~10、14節)。
-パウロは争う聖徒たちを「あなたがた」とし、「私たち」つまり、パウロとアポロと区分している。パウロは「あなたがた」は満ち足りて、王さまになっていると言い、「私たち」は使徒として死を目前にしている、愚かで弱い、卑しめられた者であると区分し、聖徒たちが争いのいい訳としているパウロとアポロがむしろ一つの側に属しており、争いのさなかにある聖徒たちは実際には、この「私たち」とは違う側に属しているというふうに表現している。パウロが争いの中にある聖徒たちを自分をアポロと区分した理由は、争いの中にある聖徒たちが自分とアポロに従うと言いながらも実際には自分たちとは正反対の信仰の道を歩んでいることを悟らせるためであった。
- パウロは特に自分とアポロが死罪に決まった者のように、世の見せ物になったと言っているが、原語θέατρονと表記されている「見せ物」は劇場を意味するtheaterの語源になった単語で、人々が取り囲んで座って見物することができるように造った円形の建造物を意味する。だから NIV聖書では パウロが、自分たちが競技場で死に至った者たちのようだと翻訳している。ローマ時代に、劇場や競技場の真ん中に引き出された罪人たちはいろいろな競技の種目の中、残酷な方法で殺され、見せ物にされた。観覧席にいる者たちは、それを他人事のように遠くから眺めてそれを楽しみ、さらには親指を立てて、その方向で彼らの生死を判断する王のような役割までした。パウロは「私たち」と「あなたがた」の差がこのように克明であることを当時の聖徒たちが慣れ親しんでいる生活の言語を用いて説明したのである。

4. パウロは福音のため苦難を受けたことを表現しつつ、なぜ「今に至るまで」という表現を用いたのでしょうか。パウロはなぜ子どものように思っていたコリント教会の聖徒たちへ苦しみが今現在までも続いているということを強調したのでしょうか(11節)。
- パウロは自分とアポロが福音のため苦しめられていることがまさに「今に至るまで」のことだと言っている。すでに過去に数多くの肉体的な迫害を受け、コリント教会の聖徒たちの争いのなか非難とさばきを受けていたパウロは、今も苦しめられていることを強調しが。それにより福音を伝えることにおいて、ただ見ている者になるのではなく、一緒に苦しみを受ける者になることを願って勧めたことが分かる。結局パウロは福音を完全に伝え、自分の子どもと同じようなコリント教会の聖徒たちも、福音を伝えるにおいて最善を尽くす者となることを願ったのである。
5.あなたは福音のため労している者たちに対しさばかず、共に福音のために苦しみを受ける場所へと足を進めていますか。
6. パウロとアポロのように神様からゆだねられた福音を伝える使命をともに担うために、自分の中に変えられなければならない姿があるとすれば、それは何でしょう。

福音を伝えるにおいて最善を尽くすという意味は、福音を伝える使命を完全に果たしながら生きているかどうかということです。このために、現在自分の身に福音を伝えるための苦難があるのなら、それを回避したり、ただ傍観したりせず、共に働く者と一緒に積極的に苦難に打ち勝つ努力が必要です。また福音を伝えるにおいてはある方式や行動が正しいとか間違っているとかを判断するのに先立って、自分にゆだねられた使命をおろそかにしないで目を覚まし、点検し、現場に飛び込んでともに労し働く姿が必要となってきます。すべての判断を神様にゆだね、徹底して聖霊の助けと力に拠り頼み、福音を伝えるために共に働く者たちと緊密に協力する主の弟子になりましょう。

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