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小グループのガイド

月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。


日付 題目 お名前 投稿数
2020-04-27 2020年 5月号 3週次 365qt 621
3
ヨハネの福音書 18:33~19:16
王の王であられるイエス様

記者会見や法廷のような公式的な席上でどのような呼称や表現が用いられるかということは、非常に敏感な問題です。そこで用いられた単語一つをもって、人々は裏にこめられた内容と意味を推論し、今後の対応策までをも模索します。今日の本文に登場したローマの総督とユダヤ人たちも裁判に立たれたイエス様を真ん中にして互いに違う呼称を用いています。互いに違う呼び名を用いることによって対立するかのように見えていますが、実際に彼らの考えがどうなのかについては良く調べてみるべきです。核心は心の中心にイエス様が王であられることを認めているのか、そうでないのかの是非です。本文を共に調べてみながら、自分の心の中にある考えは何であるか考えてみる時間を持ちましょう。

1.ピラトは繰り返してイエス様に何を確認しようとしていますか。イエス様の答えを聞いたピラトが下した結論は何でしょう。なぜそのような結論を下したのでしょうか (18:33、37、39)。
-ピラトはイエス様に「あなたは、ユダヤ人の王ですか」(18:33)、また、「あなたは王なのですか」と繰り返して質問し、イエス様がユダヤ人の王であるかについて確認しようとした。
-イエス様の答えを聞いたピラトは、ユダヤ人たちに「あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか」と聞いた。ピラトはイエス様の身分がユダヤ人の王であるという結論を下すことに躊躇しなかった。彼が、イエス様は王だという結論を下した理由は、イエス様が本当の王であるということを知ったからであるかもしれないが、むしろ、イエス様が王であるということを認めても自分とは特別大きな関係のないことだと考えたからであるかもしれない。数多くの王たちを征服したローマ帝国の総督として、地方の王を認めたとしても、自分とローマの位置が影響を受けることはなかったからである。
2.ユダヤ人たちはイエス様をユダヤ人の王であると宣言したピラトにどのように反応しますか(18:40、 19:6~7、15)。

-ユダヤ人たちはむしろピラトがイエス様をユダヤ人の王と宣言したことを拒否した。ユダヤ人たちは、イエス様を釈放しないことを求め (18章 40節)、イエス様を十字架に掛けることを要求した(19章 6節)。
-ユダヤ人たちはイエス様が自分を神の子だと言ったことから律法によると死に当たるとして死刑を求めた(7節)。さらに、カイザル以外には自分たちの王はいないと言い、イエス様を十字架につけるように言った(15節)。ユダヤ人たちは異邦人のピラトよりもっと積極的にイエス様を否定し、殺すべきだと求めた。

3.つい何日か前にはイエス様のエルサレム入場を歓迎していたユダヤ人たちがこのように敵対的な態度に急変したのはなぜでしょう(参照/Ⅰサム 8:19~20、イザ 43:15、ヨハ 7:31、11:48)。
-ユダヤ人たちは過去に彼らの歴史の中で初めの王を立てる時から「私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれる」王を願う者たちだった (参照/Ⅰサム8:19~20)。彼らはかつてより自分たちのために戦って地といのちを安全に守ってくれる軍事的、政治的指導者を求める民族だったのだ。それでイエス様が起こされた数多くの奇跡から、イエス様の御力の偉大さが表現されていたのにもかかわらず(参照/ヨハ 7:31)自分たちの土地と生存を脅かしてくるような存在だとひとたび認識すると(参照/ヨハ 11:48)即座に態度を変えてしまうのであった。
-一度自分たちの利得に反すると判断されると、ユダヤ人たちはイエス様を否定するにとどまらず、容赦なく、イエス様を死に追いやろうとした。その過程で、多くの奇跡を起こされたイエス様が神様の御子であるかもしれないという重要な事実もまた否定し、神様だけが自分たちの王であるという旧約の預言者の宣言があったにもかかわらず(参照/イザ43:15)、むしろ異邦の皇帝カイザルだけが自分たちの王だとする神性冒涜的な告白までするに至った。

4. イエス様をユダヤ人の王であると宣言したピラトとローマの兵士たちは、実際にどのように行動しましたか。なぜそうしたのでしょうか(19:1~3)。ユダヤ人とローマ人が力をあわせてイエス様を殺した事実を見て、どう思いますか(19:16)。
-ピラトとローマの兵士たちは表面的にはイエス様が王であると宣言したにはしたが、実際には王に対してするにふさわしい尊敬ではなく、あざ笑う態度でイエス様を扱った。イエス様をむち打って、王の冠をかぶせて痛めつけた。そしてイエス様を最終的に十字架につけるためにユダヤ人に引き渡した。
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ローマの兵士と総督である彼らに、敵国の首長を捕らえて凱旋式であざ笑い、最後には処刑するというのは当時馴染みのやり方であった。かえって、相手が強いことを認めて、崇め奉ることによって、勝利した自分たちがもっと強くて優れているということを表明できるという傲慢が背景にある。
-ローマ人たちとユダヤ人たちの行動は、うわべにはイエス様を王として認めた側と認めない側という対立的な関係にあるものと見えるが、根本的には自分の権威や利得を優先しイエス様の王となられたことをきちんと認めない点においては同じである。人間は自分の権利や利得を優先してスタートするとき、神様を否定するようになる。

5. あなたは自分の権威や利得を優先するより神様が王であられることを告白し、このことを認める人生を生きていますか。
6. 自分の権威や利得を最優先にする態度を克服するため決断すべきことは何でしょうか。互いに分かち合ってみましょう。

ピラトとユダヤ人たちはうわべでは「ユダヤ人の王」というイエス様の呼び名で対立しているように見えましたが、結果的にはイエス様を殺すことに力を合わせることになりました。彼らがこのような罪を犯すようになった根本的な理由は、心の中に自分の権威と利得を優先視する自分中心の態度があったからです。自分の権威と利得を手放さないなら、イエス様が王であるということを認められず、むしろイエス様を否認し、さらには、行動でも主を否認することをいとわなくなります。他人から見られる姿だけでなく、心の中がどのようであるか常に警戒し、点検し、王の王であられる主に真の栄光をささげる主の弟子になりましょう。

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