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小グループのガイド

月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。


日付 題目 お名前 投稿数
2020-04-27 2020年 5月号 1週次 365qt 503
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ヨハネの福音書 15:1~11
キリストのうちにとどまる

信仰生活をちゃんとできているかの是非を見定める重要な尺度のうちのひとつは、みことばに照らし合わせて自分の行動を点検することにあります。たとえば、今日の朝黙想したみことばを完全に実践するために努力する人を「キリストの外」にいるとは言わないでしょう。その反面みことばとは関係なく自分の基準に従って生きるひとを「キリストのうちに」とどまっているとは言わないでしょう。今日の本文は「キリストのうちに」とどまっている人生について語るイエス様のみことばです。イエス様が語られたキリストのうちにとどまる人生とはどんなものでしょうか。調べてみましょう。

1.イエス様は自分と父なる神様を何に例えていますか。父は実を結ばない枝を取り除いて捨ててしまうと言っていますが、なぜでしょう (1節、参照/イザ 5:7)。

- イエス様は自分を指してぶどうの木であると言われ、父なる神を農夫だと言われた。
-イエス様はご自分をまことのぶどうの木と言い、イスラエルのことを、かつてそうなることができなかった真のぶどう園であるということを語っている。イスラエルは主のぶどう園であったが正義と公義を行わなかった。だからこれに対して豊かなぶどうの木であるイエス様を通して接ぎ木をしようとされたのである。しかしパレスチナ地方で毎年庭師たちが死んだ枝を切って、刈り込みをするが、これはもっと多くの実を結ぶための作業であるということを知ることができる。それと同じように父なる神様もぶどうの木がもっと多くの実をつけるためにこのような過程をとおらせる。

2.イエス様が語られた「とどまる」の意味は何でしょう。弟子たちにイエス様にとどまると命じられた理由は何でしょう(4~5節)。
-イエス様が語られた「とどまる」はギリシャ語で「メノ」で、ヨハネの福音書全体のなかからは40回登場する。この意味はまずイエス様を救い主として受け入れるという意味で、二つ目にはその信仰を継続的に守って行くことを意味している。三つ目には、信仰と、イエス様に従っていく愛の服従を意味している。

-ご自分のうちにとどまってこそ人々が実を多く結ぶことができるからである。

3.イエス様にとどまらない人たちは外に捨てられる枝のように枯れて、最終的には火に入れられてしまうというみことばの意味は何でしょう (6節)。
- 火に投げ入れられて燃やされてしまう枝については多様な解釈があるが、救われない状態のままでさばきを受けることになる人たちと見るのが妥当だと思われる。キリストと関係のない人たちは、霊的に死んだ状態で後になって永遠の刑罰に処せられる人たちである。
4.神様が自分を愛するように弟子たちを愛されたイエス様が、弟子たちに要求されたことは何でしょうか。このために必ず従順に従うべきことは何でしょう(9~12節)。
-イエス様は弟子たちにイエス様の愛にとどまることを求められた。このために必ず行わなければならないことは父の戒めを守ることだ。
-父の戒めを守るということは父の命令に従うということを意味する。このことは父なる神の心情を悟ることで、同時に父のふところを離れては生きてはいけないことを意味する。もし、父の命令に従うことを望まないのであれば、その瞬間サタンはその事実を利用し私たちを惑わそうとしてくるだろう。だからイエス様にとどまるためには父なる神のみこころを悟り、そのみことばを守る道だけが父なる神のふところで守られる道なので、このような努力は必ず必要である。

5.イエス様の愛のうちに完全に留まるため、日々主のみことばに従いながら信仰の兄弟姉妹を愛して生きているでしょうか。
6.私たちはキリストにとどまるとき、安全を感じながら成長することができます。このような安全と成長を味わうために、あなたが決断すべきことは何でしょう。ともに分かち合ってみましょう。

イエス様が語られた「キリストにとどまる」人とは、みことばに従順に従う人のことです。戒めを守り愛のうちにとどまるということは、「従順」と同意語で、ただみことばに従う人だけが主が願われる実を結ぶようになるのです。ところが世はあらゆる誘惑によってクリスチャンが豊かな実を結ぶことができないように妨害します。しかし今日を生きるクリスチャンはただイエス・キリストにとどまることだけが安全で、神様が願われる実を結ぶことができる唯一なる方法であるということを記憶すべきです。キリストにとどまる人が味わい楽しむ祝福を、キリストの外にいる者の満足と比較するということ自体が愚かなことなのです。キリストにとどまることがどれほど大きな祝福であるかを悟り、生きていく主の完全な弟子となっていきましょう。

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