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小グループのガイド

月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。


日付 題目 お名前 投稿数
2020-04-27 2020年 4月号 3週次 365qt 518
3
ヨハネの福音書 12:12~26
神様の栄光を追い求める弟子

どんなに美しい花でも、十日間以上その命を保つことは難しい、つまり、いくら盛んであってもそう長く月日のたたないうちにすたれるだろうということを意味することばが韓国にはあります。聖書のみことばも、私たちにこのような限界について、正確に教えています。それでクリスチャンはこのような限界を正しく認識し、イエス様の弟子としてふさわしく信仰生活をしなければなりません。イエス様の弟子が歩むべき人生の姿と態度は、どのようでなければならないか、本文を通して調べてみましょう

1. エルサレムに集まった大ぜいの人の群れはイエス様を何と呼んで栄光を帰しましたか。彼らがイエス様を歓迎したのはなぜだったのでしょうか(12~13、18節)。
-大ぜいの人の群れがイエス様を歓迎したのは、彼らがイエス様が死んだラザロを生き返らせた奇跡について聞いていたからである。
2.ユダヤ人たち以外に、またどのような人々がイエス様を見たいと願いましたか。彼らがイエス様を見ようとした理由は何でしょう。また、このことが意味するところは何でしょう ( 20~21節)。
-彼らがイエス様を見ようとした理由は、彼らもイスラエルの民のようにイエス様に関する驚くべき知らせを聞いたからである。これはイスラエルだけでなく、異邦人の中の真実な者たちもイエス様に関心を持って歓迎したという意味である。
3.イエス様はイスラエルの民と異邦人たちに認められたこの状況について、何と言われていますか。イエス様が言われた栄光と一般的な意味の栄光はどう違いますか(23~24節)。
-イエス様が言われた栄光は、人々の人気と歓迎を意味するものではない。イエス様は「一粒の麦が地に落ちて死ぬこと」つまり、ひとりの人がいのちを差し出して多くの人々に仕えることを栄光と言っておられるのである。もっと具体的に言えば、イエス様はご自分が死ぬことについて「栄光を受ける」と言われていた。これは一般的に人々に歓迎され、人気を得るような栄光とは違う意味の栄光である。
4.イエス様は神様がどのような人を尊く思われると言われましたか(25~26節)。イエス様はなぜ世の人気に関心を持たれず、いのちまで捨てて人類に仕えられたのでしょうか。
-神様は、いのちを尽くして世の民に仕える者を尊く思われる理由は、その道を通してのみ世のあらゆる民に対する神の救いの業を担うことができるからである。イエスはその真理を明確に知っておられ、神の救いの業のために自分のいのちを差し出されたのである。

5.あなたは神が願われる栄光に満ちた生活の基準を忘れ、人々から認められることに関心を持ち、神経を傾けて生きてはいませんか。
6.神様が願われる「一粒の麦」としての道を歩むため、あなたが決断すべきことは何でしょう。

人々から認められることと、歓呼の声は神様に認められることによる栄光とは全く比べられるものではありません。なぜならこの世の栄光は風をつかむようなことに等しく、いくらつかもうとしてもつかむことができないからです。したがってイエス様の弟子として生きている私たちは、この地の栄光と呼ばれるものを意識的に警戒し、イエス様が提示された栄光の人生を生きるために努力しなければなりません。イエス様は神様が認められる人とは「一粒の麦」のような人であると言い、まずご自分がその道を歩まれました。ですからクリスチャンは、自分が地に落ちて死に数十倍の実を結ぶ「一粒の麦」のように自分を犠牲にして私たちを生かしてくださったイエス様を見上げて、黙々とその道に歩まなければなりません。

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