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小グループのガイド

月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。


日付 題目 お名前 投稿数
2019-02-28 2019年 3月号 2週次 365qt 716
マルコの福音書 8:14~21
霊的に無知な者ですか


霊の目をさえぎってしまう要因は、世のあらゆる場所にあります。金、名誉、地位、権威など世の人たちが好むことに心を奪われてしまえば、本当に見上げるべき部分を見ても、何も悟れない事態が生じます。礼拝をささげ、QTをし、小グループの聖書勉強を通して、神様のみことばを学んでも、信仰が育たないとすれば、必ずその理由を捜さなければなりません。また、霊の目がさえぎられて神様のみことばを正しく理解できないでいることはないか、自分を顧みなければなりません。今日の本文を通して霊の目が開かれ、霊的無知から脱するためにはどのようにしなければならないかを調べてみましょう。

1. イエス様が弟子たちに警告された内容は何でしょう。その意味は何だと思いますか(15節)。

-「パリサイ人たちのパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と言われた。
-マタイとルカはパリサイ人たちの「パン種」を「教え」と「偽善」としているが、マルコは具体的にそれを定めて記すことはしていない。文脈を通して調べてみると、パリサイ人たちとヘロデが弟子たちに及ぼす危険な影響力を包括する単語として「パン種」が用いられたことが分かる。

2. 警告にも関わらず、弟子たちが今パンをもっていない事実に集中していると、イエス様はそれに対して何と言われましたか(17節)。イエス様が語られた「心が堅く閉じているのですか」という表現は何の意味でしょうか。


-パンがないと言って互いに議論している弟子たちに対し、教えについてまだわからず、悟ることもできないと言って叱責された。心が堅く閉じているのかと言われた。
-弟子たちはパリサイ人たちとヘロデの危険について教えられていることにはまったく集中できず見当違いの誤解に陥って、今この場で食べることのできるものにだけ集中していることを見させられる。心が堅く閉じているというのは。旧約の豫園者たちがイスラエルの頑なな姿を指摘するときに良く好んで用いられた表現で、彼らがみことばについて理解できないでいることを指す表現である。
3.「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか」に込められた意味は何でしょうか(18節、参照/マコ 4:11~12、4:33~34)。
-そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」 (マコ 4:11~12)
-イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。
たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。(マコ 4:33~34)
-目がありながら見えない、耳がありながら聞こえない人たちは、信仰のない異邦人と同じであると言っているのだ。事実主は弟子たちにはたとえについて解釈をしてくださった。しかしそのような経験をしていた弟子たちが現在悟ることができていない状態にあることを見て、主はもどかしく思っておられることが分かる。

イエス様が五つのパンと二匹の魚、七つのパンと魚の奇跡のことを例にして、弟子たちに語ろうとされた内容は何でしょうか(19~20節)。イエス様がまだ悟らないのですかと叱責された弟子たちを見ながら何を感じますか。
-二度も養われる奇跡を経験していたにも関わらず、パンに集中している弟子たちに向かって、もっと大きな信仰と悟りを持つよう言われた。
-それぞれ自分と関係があるかないか確認し、自分の信仰がどのような状態なのか自分が感じるところを話してみよう。



5.主の恵みを経験したにもかかわらず、信仰の弱さのゆえにイエス様の助けを疑ったことはありませんか。
6.霊的に知恵を持つため、自ら克服しなければならない問題についてよく考えてみましょう。それを解決する方法についても分かち合いましょう。

世に視線を奪われていると神様の業と御力を見ても正しく悟ることができない場合が発生します。自分の前に五つのパンと二匹の魚、七つのパンと魚の奇跡があってもこのことを行われる方がだれであるのか信仰によって悟れないなら、霊的に無知な状態から決して脱することはできません。私たちはこの世を生きる間、イエス様がこの地に来られた理由と行われた業、そしてイエス様が聞かせてくださるみことばについて正しく悟らなければなりません。そしてこのためにすべての事実を信仰によって受け入れることのできる目と耳がなければいけないのです。ただ主のみことばに目と耳を集中させ、主のみこころを悟り、人生の変化という実を結ぶ主の弟子になれますように。

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