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月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。

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2017-11-03 |
2017年 11月号 3週次 |
365qt |
1115 |
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悔い改めを通しての共同体の回復 哀歌 1:1~11
<心の扉を開いて> 教会はイエス様を頭として、信仰によってひとつとなる者たちの集まりです。しかし不完全な人々が集まっているので、いつでも困難に会う可能性はあるのです。だからみなが神様のみこころを知ろうとし、神様の栄光のために集中するなら、共同体に与えられた困難を解決することができるのです。しかし本質ではない問題にとらわれて、このことを解決できないでいる場合、続いてやってくる困難から切り抜けることはできません。そうであるなら、困難の中にある共同体が回復されるために、必ず解決しなければならない問題はなんであるか、解決のためにどのような努力をするべきかを本文を通して調べてみましょう。
<みことばの種をまいて> 1. エレミヤは栄光の町であったエルサレムの姿がどのように変わったと言っていますか (1~2節)。 - 人の群がっていた町もさびしくなり、やもめのようになってしまった。泣きながら世を過ごしても慰めてくれるものはおらず、友もみな裏切り敵となってしまった。
2. エルサレムが変わった理由は何ですか。どのような待遇を受けますか(7~8節)。 - 敵はその破滅を見て笑う。エルサレムがこのような状況になった理由は、罪に罪を重ねたから。
3. エレミヤがエルサレムを擬人化し、「彼女の汚れはすそにまでついている。彼女は自分の末路を思わなかった」と言った理由は何ですか。エルサレムのこのような姿を見ても、慰める者がいないと告白した理由は何ですか(9節)。
- このみことばは、卑しめられ、あざ笑われている女性をあらわしている場面。服のすそまで汚れがついているのは、きよい状態ではないことを述べているのであり、どのような理由からかわからないが、女たちが血によって染められた服を着ていることをあらわしている。これは卑しめられ、蔑視を受けてもどうすることもできないことをあらわしている。 - このような状況の中で、慰める者がいないというのは、一時は、すべての人が羨望のまなざしで見ていたエルサレムでしたが、苦境に置かれたのにだれも助ける者がなく、荒れ果ててしまったということ示している。栄光が去ってしまいエルサレムには何も残されていないという意味だ。
4. エルサレムが神様の臨在が満ちている聖所が破壊されている状況を見ても、何の対策も求めることができなかった理由は何ですか。また食料がなくて、いのちの危険にあっているエルサレムを見て何を感じますか(10~11節)。 - 異邦の民が、夫の住まいである聖所に思いのままに入ったという表現から最悪のはずかしめ、嫌悪すべきことが起ったことを知ることができる。神様の栄光が去り、彼らの力によって異邦人たちの略奪と攻撃を抑えることができない弱い存在に変わってしまった。
5. 私たちの共同体は神様の栄光に満ちた臨在のためにどのような努力をしていますか。過去、神様から賞賛された共同体の姿が、現在はなくなっているとすれば、その理由は何ですか。 6. 共同体の中の困難を克服するために解決しなければならない問題があるとすれば、それは何ですか。神様の栄光を掲げる共同体に再び回復するために、何を決断しなければなりませんか。
<人生の実を刈り取って> エルサレムがこの困難の中にある根本的な理由は「罪」です。神様はエルサレムの罪の問題を解決するために、彼らを続けて困難にあわせました。罪という本質的な問題を解決しない状態で、ほかの部分にだけ集中するようになるなら、完全な共同体の回復を経験できません。神様はエルサレムの敗北を通して、彼らが再び新しい土台の上に回復されることを願われました。完全な共同体の回復のために解決しなければならない問題があるなら、勇気をもって主の前にそれを出し、悔い改める時間を持たなければなりません。それと同時に共同体の回復のために、献身するなら、私たちの目にあった悲しみの涙は喜びの涙に変わります。神様によって回復される健全で完全な教会を夢見て、自分の罪から主の前に悔い改めて決断しましょう。
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目録
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