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小グループのガイド

月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。


日付 題目 お名前 投稿数
2017-05-02 2017年 5月号 4週次 365qt 1037
罪と悪の世界で生き残る
列王記第一 16:21~34

「朱に交われば赤くなる」ということわざがあります。親しく付き合う人にだんだん人は似ていくものだという意味のことばで、親切で優しい人と交われば優しい人になり、悪い人と交われば悪くなるということです。この言葉は人と人の付き合いだけに限られたことではありません。罪や悪を近くにして生活すれば、その環境から罪に簡単に染まってしまうということを意味します。そうであれば悪い世にあって、キリストの良い影響力を周囲に及ぼしながら生きるためには、どうすべきでしょうか。罪に染まった世の中で自らを守るために何をしなければならないかを考え、本文に登場する人物たちを反面教師にして学ぶ時間を持ちたいと思います。

1. ジムリが死に、オムリが北イスラエルの王になる過程で、どんな事が起こりますか(21~22節)。
-> イスラエルの民は、ティブニ派とオムリ派に分かれた。それぞれのグループの間に争いが起こり、ティブニは死に、オムリが王位に就いた。

2. オムリが王位について、した事はなんでしたか。列王記の汽車はオムリをどのように評価していますか(24~26節)。
-> オムリは銀二タラントでシェメルからサマリヤの山を買い、その山に町を建てて山の持ち主であったシェメルの名にちなんでサマリヤと名付けた。列王記の記者は、オムリについて「主の目の前に悪を行い、彼以前のだれよりも悪いことをした」と記録し、ヤロブアムの道を歩み、主の怒りを引き起こした。


3. オムリに続き王位についたアハブはどのようなことをしましたか(31~33節)。列王記の記者がオムリよりもアハブが神様をもっと怒らせたと評価したのはなぜでしょう。
-> アハブは、ヤロブアムの罪のうちを歩むことを軽いことだと考えた。彼はシドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、バアルに仕え、それを拝んだ。またサマリヤに建てたバアルの宮でもバアルのために祭壇を築き、アシェラ像を造った。
列王記においてバアルを礼拝した最初の王はアハブであり、バアルの宮を建てバアルのために祭壇を築き、アシェラ像を造った王もアハブであった。このような行動は、ヤロブアムの罪を軽く考え、バアルを国家レベルで認め、仕えるような結論に達した。他のどんな王にもまして神様の嫌われる悪を行ったことがわかる。

4. アハブ王の時、ベテル人ヒエルは何をして子を失いましたか(34節)。ヨシュアの誓いがアハブが統治していた時期に成就することを見れば、何を知ることができますか(参照/ヨシ6:26)。
->  ベテル人ヒエルがエリコを再建したが、礎を据えるとき、長子アビラムを失い、門を建てるとき、末の子セグブを失った。城壁や門がないエリコをそのままにしていたのは、イスラエルがカナンの地を主から贈り物として受けたことを示すためであった。だからヨシュアは民に対して、エリコを再建しないように誓って語ったのだ。これは主がヨシュアを通して語られたことばである。しかしヒエルはこのみことばに従わなかった。時間的な差は見られるが、神様は必ず語られたことを成就されるお方であることがわかる。また神様は、絶対に神の民が、神ご自身との約束を破ることを許されない方であることがわかる。

5. 神様はご自身が結ばれた約束を人が軽く考えて破ってしまうことを嫌われます。私たちも生活で神様が語られた内容を軽く考える経験があるなら、それは何でしょう。
6. 私たちの家庭、学校、職場で、神様が望まれるとおり生きようとするなら、どのようにしなければならないかを分かち合い、互いのために祈りましょう。

北イスラエルの罪はオムリとアハブの時代に入って、ますます深くなります。神様の御前で罪を犯したことに恐れを感じず、軽く考える姿を通して、この時代がいかに悪い状態にあったかを知らされます。それだけでなく、バアルに仕え、アシェラ像を立てたことは、神様の前で決して受け入れられない罪でした。このような指導者の堕落の中で、民もまた、神様のみことばに従いませんでした。ヨシュアの時代の語られていた命令をベテル人ヒエルが守らなかった姿から、彼らがどれほど神様のみことばを軽んじていたか、端的に分かります。しかし神様はこのような姿を決して望んでおられません。時間と空間に関係なく、ただ神様を完全な心で礼拝する者を主は捜し、その人を通して、主は主が望まれることを行われます。ならば、私たちはどのような姿で生きなければならないでしょうか。主の完全な弟子として世と区別された人生を歩むことができるよう、求めていきましょう。


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