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月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。
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2016-08-29 |
2016年 9月号 4週次 |
365qt |
1186 |
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GBS 마 7:21~27 やがて崩れる仮住まいに住む者 곧 헐릴 임시거처에 사는 자
마음의 문을 열며 掘っ立て小屋やテントで住み続けたいと思う人を見たことがありますか。雨や雪を避けることのできるところがまったくない屋外よりはましでしょうが、このような臨時の住まいにずっと住みたいとは誰も思いません。イエス様は信仰者のなかで、仮住まいに住むような信仰生活を送っているだけでなく、自分がそのようなところに住んでいることすら悟れない者たちがいるということを語られました。丈夫な家に住むような信仰生活と、仮住まいに住むような信仰生活との差は、いったいどこにあるでしょう。イエス様が山上の垂訓の結論として語ってくださったみことばを通して、堅固な信仰とはどのようなものなのかを考えてみましょう。
말씀의 씨를 뿌리며 1.イエス様によれば、どのような人が天の御国に入ることができますか。また、どのような人が天国に入れると思っているのに入れない結果になりますか(21、22節)。イエス様は彼らをどう呼んでいますか(23節)。 -天におられる父なる神様のみこころを行う者だけが天国に入る。入れると言ってくださっている。主よ、主よ、と呼び求めるだけの人間、主を呼び求めつつも自分の名で行ったわざを挙げ連ねる人たちは、天国に入れるかのように見えていても、実際は彼らは天国に入れない不法を行う者どもであると言われる。
2.イエス様によれば、「不法をなす者ども」と呼ばれる人たちが行ったことはどんなことですか(2節)。なぜイエス様は、彼らのことをこのように評価をされたのでしょうか。 -彼らが主を主と呼び、預言者をし、悪霊を追い出し、奇蹟を行ったということ自体は、他の状況では賞賛のことばを聞けるものだった。しかし彼らは不法をなしたと言われる。これは神のみこころのとおりにしたことではなかったし、それを通して彼らは自分の利己的な益を求めたからだ。これは永遠に至るわざではなかった。
3.イエス様は、天国に入れる人と、入れない人をそれぞれ何にたとえて語られましたか(24、26節)。なぜイエス様はこのようなたとえを用いられたのでしょうか。 -天国に入れる人は岩の上に自分の家を建てた人のようであり、そうでない者は、砂の上に家を建てた人に例えておられる。 -神様の御心の通りにしなくても、少しの期間は天国に入れるかのように振舞っていることができるからだ。神様の御心に従う人は、岩の上に家を建てたので、変わることがないが、そうでない者は、やがて崩れる仮住まいに住んでいるのと同じである。
4.イエスを主と呼び、預言をし、主の御名によって悪霊を追い出したことであっても、みこころと全く関係がなかったということもありうることであり、そのようなことの結果は、砂の上に家を建てることと同じであるというみことばを、どう考えますか。
5.他の人に認められたいという動機で以前、やったことのある慈善や奉仕はありませんでしたか。分かち合ってみましょう。
6.今どのような奉仕をしていますか。それがイエス様の命令に従順に従うためのものなのか、あるいは人々に認められ、尊敬されるためのものなのか評価してみる時間を持ちましょう。ただみことばに従う者としてそれをするために、どのような変化、実践が必要でしょうか。
삶의 열매를 거두며 他の人から敬虔な姿勢をほめられたり、奉仕や他人に仕えたことが称賛されたりすることがあります。賞賛と励ましが悪いというのではありません。しかし純粋な心が失われた状態で、他の人から認められたり、尊敬されたりするなら、その敬虔な姿勢はしばらくの間はそれなりにすばらしく見えるでしょうが、それは結局のところ「仮住まい」、つまり砂の上に建てた家に他ならないのです。また私たちは思ったより、自己合理化と、自己欺瞞に長けています。だから自分の栄光、自分の益のための働きや奉仕であっても、それが主のためのであると自らをだまし、錯覚してしまう場合さえありえます。主の御前に立つとき、主が私たちを「不法をなす者ども」と評価されることのないように、私たちの内面の深いところを綿密に省察し、純粋だった初めのこころで仕える者とならなければなりません。
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目録
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