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月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。
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2014-10-30 |
2014年 11月号 23週次 |
365qt |
1611 |
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コリント人への手紙第一 6:1~11 神様が私たちの王であられる
1. パウロは、ある出来事のゆえに、コリントの教会の聖徒たちをはずかしめようと彼らを非難しています。コリントの教会では、兄弟同士の間でどんなことがありましたか(1、6、8節)。 -> コリントの教会の兄弟のうち誰かが、兄弟に対して不正を行いだまし取っていた。これが争いに発展し、教会の中で問題を解決できずに不信者の前に告訴することになった。
2. パウロは、兄弟同士の争いを、正しくない人たちではなく、どのような人に訴え出るよう勧めていますか(1、5節)。 -> パウロは、聖徒たちに訴えるように言っている。ここでの「聖徒」は、兄弟同士の問題をさばくことができる知恵ある者を指す。つまり、教会の中の権威者によって裁判が行われるようにすべきだということである。
3. パウロは、聖徒が持つどのような特権のゆえに、正しくない人たちによって兄弟同士の争いをさばくことは思慮がないと言っていますか(2~3節)。 -> 聖徒は主の再臨のときに主とともに世界をさばくようになる者たちであり、聖徒は御使いをもさばくべき者だと言っている。このような特権を持つ者であるがゆえに、兄弟同士の争いを正しくない者に訴え出ることは思慮がないと言っている。
4. クリスチャン同士の争いをこの世の権力の前に持ち出してはならないと勧める際に、神の国とクリスチャンの霊的な地位について教える理由は何だと思いますか。 -> この世の国の権威よりも神の国の権威のほうがずっと大きく、上にあるからである。裁判というものは常に、争いの当事者よりも大きな権威を持つ者の前で行われる。クリスチャンがこの世の権力の前で裁判を受けることは、この世の権力が神様の権力よりも高いと認める行為になるのである。
5. 口では神様が自分たちの王であると告白しながらも、いざ問題が起きると、この世の権力の前で裁判を受ける行為は、自分たちの王が神様ではなく、この世の権力者であると告白することと同じです。私たちの中にこうした問題がありませんか。私たちが本当に神様を王として仕えていると言える証拠は何ですか。
6. 私たちそれぞれが、そして私たちの共同体が神様の王権をより完全に告白し、それにふさわしく生きていくことができるように、必要なものは何だと思いますか。ともに分かちあい、そのような生き方を実践できるよう祈りましょう。
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目録
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