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小グループのガイド

月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。


日付 題目 お名前 投稿数
2014-10-30 2014年 11月号 16週次 365qt 1555
コリント人への手紙第一 4:1~21
ことばではなく力で


1. パウロがこのような手紙を書く目的は何ですか。コリントの教会にどのような問題が起きたのでしょうか(14~15、18節)。
-> パウロは、コリント人への手紙第一を、愛する子どものようにさとすために書いた。コリントの教会のある人々は、パウロがいなくなると思い上がった。

2. コリントの教会の一部の人々は、パウロがコリントを離れると高慢になりました。パウロは、彼らがどのような行いのせいで高慢になったと指摘していますか(6節)。
-> 高慢な者たちは、神様の奥義(福音)を自分勝手に解釈することにより、聖書に書かれているみことばを越えるという愚かなことをした。

3. パウロは、思い上がっている者たちに何を見せてもらうと言いますか。パウロがこれを見せてもらうと言った理由は何ですか(19~20節、参照/Ⅰコリ2:4~5)。
-> パウロは、思い上がっている人たちの力を見せてもらうと言った。この力は、パウロが福音を宣べ伝える際に経験した御霊の現われと神様の力である。この力が信仰を生み、福音を前進させたことをパウロはとてもよく知っていた。思い上がった者たちにもこのような力があるのか見せてもらうと言ったのは、彼らが神様のまことの福音を伝える者なのか見分けようとしたからである。

4. テモテをコリントの教会に送った理由は、人々に何を思い起こさせるためですか。これは、パウロの何を通じて伝えられましたか(17節)。
-> テモテを通じて、パウロが至る所すべての教会で教えていることをコリントの教会の人々に思い起こさせようとした。この教えは、キリスト・イエスにあるパウロの生き方を通じて伝えられた。

5. 神様の福音を任されたキリストのしもべが取るべき態度はどのようなものだと考えますか(1~2節)。イエス様が福音を伝えられるときに持っていた態度と私たちの状態を比べて、私たちの姿をどのように変えるべきなのか話してみましょう(参照/ヨハ12:49~50)。
-> 神様の福音を伝えるしもべが取るべき態度は忠実であることだ。キリストのしもべは、異邦人の偶像礼拝の慣習や哲学的な弁証ではなく、みことばを通じて福音を説明しなければならない。イエス様は、福音を伝えられるとき、父なる神様に言われたとおりをそのまま話された。

6. 今日でも、伝道するときに聖書が語る福音に何かを付け加えて偽りの福音を伝える者たちがいます。私たちは、福音をねじ曲げず、まことの福音とそれにふさわしい生き方によって、福音のまことの意味を伝えているでしょうか。互いに点検してみましょう。

11월 23일
コリント人への手紙第一 6:1~11
神様が私たちの王であられる

말씀의 씨를 뿌리며
1. パウロは、ある出来事のゆえに、コリントの教会の聖徒たちをはずかしめようと彼らを非難しています。コリントの教会では、兄弟同士の間でどんなことがありましたか(1、6、8節)。
-> コリントの教会の兄弟のうち誰かが、兄弟に対して不正を行いだまし取っていた。これが争いに発展し、教会の中で問題を解決できずに不信者の前に告訴することになった。

2. パウロは、兄弟同士の争いを、正しくない人たちではなく、どのような人に訴え出るよう勧めていますか(1、5節)。
-> パウロは、聖徒たちに訴えるように言っている。ここでの「聖徒」は、兄弟同士の問題をさばくことができる知恵ある者を指す。つまり、教会の中の権威者によって裁判が行われるようにすべきだということである。

3. パウロは、聖徒が持つどのような特権のゆえに、正しくない人たちによって兄弟同士の争いをさばくことは思慮がないと言っていますか(2~3節)。
-> 聖徒は主の再臨のときに主とともに世界をさばくようになる者たちであり、聖徒は御使いをもさばくべき者だと言っている。このような特権を持つ者であるがゆえに、兄弟同士の争いを正しくない者に訴え出ることは思慮がないと言っている。

4. クリスチャン同士の争いをこの世の権力の前に持ち出してはならないと勧める際に、神の国とクリスチャンの霊的な地位について教える理由は何だと思いますか。
-> この世の国の権威よりも神の国の権威のほうがずっと大きく、上にあるからである。裁判というものは常に、争いの当事者よりも大きな権威を持つ者の前で行われる。クリスチャンがこの世の権力の前で裁判を受けることは、この世の権力が神様の権力よりも高いと認める行為になるのである。

5. 口では神様が自分たちの王であると告白しながらも、いざ問題が起きると、この世の権力の前で裁判を受ける行為は、自分たちの王が神様ではなく、この世の権力者であると告白することと同じです。私たちの中にこうした問題がありませんか。私たちが本当に神様を王として仕えていると言える証拠は何ですか。

6. 私たちそれぞれが、そして私たちの共同体が神様の王権をより完全に告白し、それにふさわしく生きていくことができるように、必要なものは何だと思いますか。ともに分かちあい、そのような生き方を実践できるよう祈りましょう。





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