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月刊QT誌(日ごとに湧く泉)の 小グループ聖書勉強のテキストとガイドが見られます。
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2014-04-25 |
2014年 5月号 1週次 |
365qt |
1771 |
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願うことと行うこと
1. 律法の基準を守れない私たちは、律法の基準によって有罪判決を受けることになります。このような私たちの状態をパウロは何と表現しているでしょうか。(14節) -> 「罪ある人間であり、売られて罪の下にある」と語っている。
2. 「売られて罪の下にある」とは、どのような意味なのでしょうか。 -> 罪に奴隷として売られた、すなわち罪の奴隷になったという意味である。私たち人間は、一度罪を犯すと、その罪をもみ消すために再び罪を犯すものである。罪を犯すと罪の奴隷となり、あちこち引き回されることになる。
3. 人が罪を犯す理由は、神様から自由になりたいと願うからです。自分の人生を選び、コントロールしたがる人の独立心が、神様に拠り頼まない罪の道へといざなうのです。しかし、罪を犯したとき、人は自由になるのではなく、むしろ罪の奴隷になるということから何を感じますか。
4. パウロは、クリスチャンとして新しく生まれ変わっても、依然として私たちの中に存在する対立を赤裸々に描写しています。私たちの中にはどのような戦いが繰り広げられているでしょうか(15~20節)。 -> したいことを行わず、かえって憎むことを行うという戦いがある。私たちの内面にこのような戦いが存在するということは、律法から抜け出した生き方を追い求めながらも、結局は、律法は良いものだと認めているわけである。
5. 自分の力だけで罪と戦って勝てるでしょうか。ひとりで駄目なら、どうすれば罪に打ち勝てるでしょうか。罪と戦ってみてどうだったのか、その経験と各自の考えを分かちあってみましょう。 -> 人は、罪だと知りながらも罪に陥る弱い存在である。知識によって罪に打ち勝つことはできない。決断しても罪に勝つことはできない。クリスチャンになったから、自動的になくなるものでもない。罪に打ち勝つ力は、私たちの中から出てくるのではなく、私たちの外から、神様から与えられるものである。私たちは罪の力を過大評価しても、過小評価してもならない。サタンは悪賢く誘惑する者であり、私たちは過ちを正当化することに驚くほど長けている存在である。私たちは限られていて無能な人の意志を信じるのではなく、無限で尽きない神様の力に拠り頼むべきである。人には、罪の問題を解決する能力がないからである。
6. 神様から抜け出す自由を追い求めてはいませんか。神様に近づこうと願いながらも、したいことは実を結ばず、したくない悪の実を結んではいませんか。依然として存在する罪の問題を、どのように解決していますか。
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目録
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